寺宝・史跡

祥雲寺の寺宝・史跡をご紹介いたします。

大名群墓地 渋谷区指定史跡

豊臣秀吉の天下統一に貢献した福岡藩主黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していたので、 元和9年(1623)に長政が 没すると、嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立しました。寛文6年(1666)には麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と号を改め、 寛文8年(1668)の江戸大火により現在の地に移りました。長政の墓は、墓標形として建てられた雄大なものです。祥雲寺の檀家には武家が多かったため、福岡藩主黒田家をはじめとして福岡藩の分家秋月藩主黒田家・ 久留米藩主有馬家・吹上藩主有馬家・柳本藩主織田家・岡部藩主安倍池・小野藩主一柳家・狭山藩主北条家・園部藩主小出家など諸大名の墓地群があります。

曲直瀬玄朔 一門医師の墓

曲直瀬玄朔は、母の兄である曲直瀬道三に養育され、天正9年(1581年)にその孫娘を娶って養嗣子となり、道三流医学を皆伝されされました。正親町天皇の治療に成功し朝廷の信頼と名声を得て、天正14年(1586年)に法印になりました。豊臣秀吉の命で九州平定に出兵中に重病となった毛利輝元の治療に派遣され快癒させ、慶長3年(1598年)後陽成天皇の危篤の際にも、急遽朝廷から赦免されて治療を任され、全快させたことで名声を得ました。 慶長13年(1608年)に徳川秀忠の療養のため江戸に招かれ邸宅を与えられ、京都と江戸を往復して朝廷と幕府の典医として仕えました。世界で初めてカルテを用いたことでも有名です。

岡本玄治の墓 東京都指定旧跡

岡本玄冶は、江戸時代初期の医家です。初名は宗什、のち諸品と改められました。玄冶は通称。天正十五年(1587)京都に生まれ、十六歳の時、曲直瀬玄朔の門に入って医学を学び、玄朔門下第一の高弟と称されました。慶長年間(1596〜)伏見城で徳川家康に拝謁し、元和四年(1618)法眼に叙せられ、将軍秀忠に召されてその侍医となり、たびたびその病用に侍して効を収めたと言われています。寛永五年(1628)法印に叙せられ、啓通院の称号を賜りました。常に京都と江戸を往復し、元和九年(1623)日本橋人形町に邸に屋敷を拝領しました。幕末の嘉永六年(1853)歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の舞台「源氏店」で有名になった玄冶店の起こりをなした。著書に「燈火集」「玄冶配剤口解」「玄冶方考」「通俗医海腰舟」「傷寒衆方企矩」などがあります。

鼠塚

墓地入口の右手に見える大きな石碑は、明治三十二年(1899)から数年間にわたりペストが流行したとき、 予防のために殺された鼠の霊を供養して明治三十五年に建てられた珍しい動物慰霊碑です。碑の裏側には「数知れぬ 鼠もさぞや うかぶらむ この石塚の重き恵みに」という歌が彫られています。 犠牲となったねずみ達のおかげか、大正15 年(1926 年)を最後に日本では今日までペストの発生は全くありません。

茶の湯文化との縁が深い
紫野大徳寺派の名刹にて

虚心庵、無功庵、半隠軒、洞明庵、
済北庵、春宵庵、棲玄庵、真常庵
などの茶室があります。