都市と歴史が調和する「広尾」の地で祥雲寺は守り受け継がれてきました。東京大空襲の戦火から逃れた本堂と史跡境内には緑が多く、奥庭には緑に輝く苔と茶室があります。都会の喧騒を忘れ、自分と向き合う場所がここにはあります。
広尾商店街の突き当たりに山門があります。
山門をくぐれば、都会の喧騒とは無縁の別世界が広がります。江戸時代に、徳川将軍が鷹狩に立ち寄ったお寺です。
春には桜、秋には大きな銀杏が銀色に輝き、本堂へと出迎えてくれます。関ヶ原の戦いでも活躍した初代福岡藩主・黒田長政公を弔うために創建されたお寺です。
寛永6年(1629)8月、麻布市兵衛町に新地を拝領し移転。瑞泉山祥雲寺と改称されました。移転には幕府医官今大路家(曲直瀬家)が深く関わっていたと考えられています。安政年間(1854-1860)に禅宗建築による書院が建立されました。
当山は大徳寺派に属します。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けた寺院です。特に、わび茶を創始した村田光琳が一休宗純に帰依した頃から、大徳寺は茶の湯の世界とも縁深くなり、多くの茶人(千利休、小堀遠州ら)とも縁深くなっていきます。
境内は6,000坪の敷地を有し、東京都・渋谷区の文化財となる史跡である江戸の諸大名墓地群が並んでいます。奥庭は緑に輝く苔と踏み石、蹲、茶室と続きます。梵鐘は準国宝に指定され、除夜の鐘には多くの方が鐘を突きに参拝に訪れます。
当山には筑前国(現在の福岡県)福岡藩の初代藩主、黒田長政公の墓所があります。黒田長政公の墓所は渋谷区の指定文化財に認定されています。
祥雲寺の檀家には武家が多かったため、福岡藩主黒田家をはじめ、その分家秋月藩主黒田家、久留米藩主有馬家、吹上藩主有馬家、柳本藩主織田家、岡部藩主安倍家、小野藩主一柳家、狭山藩主北条家、園部藩主小出家など諸大名の墓地群があります。
明治32年(1899)から数年間にわたりペストが流行したとき、予防のために殺された鼠の霊を供養するために明治35年(1902)に建てられた珍しい動物慰霊碑です。碑の裏側には「数知れず 鼠もさぞや うかぶらむこの石塚の重き恵みに」という歌が彫られています。
岡本玄治は江戸時代初期の医家です。慶長年間(1596〜)伏見城で徳川家康に拝謁し、元和4年(1618)法眼に叙せられ、将軍秀忠に召されて、侍医となり、度々その病用に侍して功を収めたと言われています。幕末の嘉永6年(1853)歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の舞台「源氏店」で有名になった 玄冶店の起こりをなし、著書に「燈火集」「玄冶配剤口解」「玄冶方考」「通俗医海腰舟」「傷寒衆方企矩」などがあります。
5月28日
お盆前の5月28日に祥雲寺で施餓鬼会は行われます。餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養する法要です。
特定の先祖への供養だけではなく、広く一切の諸精霊に対して修され、無縁仏や供養されない精霊も含め、戸外に精霊棚(施餓鬼棚)を儲けて施します。
施餓鬼会の起源は、お釈迦さまの十大弟子の一人である阿難(あなん)というお坊さんが体験したことから始まります。
11月28日
祥雲寺の開山忌は11月28日に行われます。
お寺を開いた御坊様を「ご開山」、そのご開山様のお亡くなりになったご兪日を『開山忌』と言います。
家には必ずの最初の基礎を築いて下さった、ご先祖様があるように、お寺にも最初のご先祖様があります。
お寺には必ず『山号』と『寺号』があります。
大勢の方々をお招きしてお勤めする大切な報恩行事(法要)が『ご開山忌』です。
12月31日
除夜の鐘は、日本仏教にて年末年始に行われる年中行事の一つでもあり、祥雲寺でも行なっております。
12月31日の除夜(大晦日の夜)の深夜0時を挟む時間帯に寺院の梵鐘を撞きます。
人には百八つの煩悩があると言われ、その煩悩を祓うために、除夜の鐘をつく回数は108回とされています。
煩悩とは、人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心のはたらきのことを言い、仏教の考え方からきています。